企業に訊く⑧&I(U)ターン経験者に訊く⑦2019.03.22

 木下正明
キノシタ有限会社 代表取締役
木下 航
キノシタ有限会社(http://shop.artisan-atelier.net/category/kinoshita_2

やっぱり人材がなければ、育成しなければ、
企業は育っていかないですよね──木下正明社長  

 家業を継ぐため豊岡にUターンした息子、航さんは今、財布作りにやりがいを見出し、熱意を持って取り組んでいる。そんな息子を頼もしく思いサポートしつつ、必要とあらばハッパをかけながら煽るのは父でもある社長だ。
 もともとは、明治〜大正の頃、現社長の曾祖父が柳行李の縁掛(ふちがけ)作業をする職人を抱える会社を興したのが、始まりだったという。戦後の混乱の中で一旦は廃業するも、先代社長が昭和38年に卸業として独立、53年からは現社長が携わるようになり、今に至っている。
 かばんの町で、その地場産業を盛り立て、ひいては豊岡という町を活性化させたいと願う父子に話を聞いた。

──御社は90年代の頭くらいまでは卸業だったと伺っています。
木下正明(以下社長):そうです。平成3年くらいから本格的にOEMの請負メーカーとしてやりだしております。

──それは何か理由があってのことだったのですか?
社長:そうですね。あの頃から、ぼちぼちと韓国製品をはじめとする海外製品が出始めてまいりました。海外製品を扱うか何かしないと、既存の小さな問屋をしているだけでは、将来やっていけなくなるんじゃないかと思いまして。もともと私のところは柳行李をやっていたということで、自分にも職人の血が流れているのなら作ってみようか、と。もともと作ることにも興味はあったので、卸しをしながらも少しずつ作ってはいたんですけど、本格的にその頃から作り出したというわけです。

──ご自身でミシンを踏まれて?
社長:そうです、そうです。1台ミシンを買って始めて。

──航さんは幼い頃から身近にかばんがありました。その頃から、自分は大人になったらかばん屋さんになるんだ、という気持ちはお持ちだったのですか?
木下航(以下木下):いえ、正直思っていなかったです。この家に住むようになったのは幼稚園の頃だったんですけど、工場が1階にあって、みんなが仕事をしている姿も知っています。早朝から始めて深夜まで、すごく忙しそうだし、大変そうなことをしていたので、「すごいなぁ」とは思っていたんですけど、正直自分が「したい」とは、なかなか思いませんでした。なので、僕は高校を卒業してから一度別の分野に入りました。専門学校から尼崎に行きまして、卒業後は介護関係の仕事をしていました。


「技術のことを言えば、2年や3年で一人前になるわけがないんですけど、それでもどんどんお尻を叩いている状態ですね、今は」

──何をきっかけにこちらに帰ってこられたのですか?
木下:向こうで結婚をしたので、それを機に地元に帰ろうか、と。せっかく帰って来るんだったら、父親が頑張っている家業を一緒にやっていきたいなと思って、職種も変えました。

──それはいつのことですか?
木下:ちょうど3年前(2016年1月)です。3年前の1月に帰ってきて、2月からかばん製造の方で仕事を始めました。

──財布に気持ちが向かったというのは?
木下:たまたまなんです。組合の中で、かばん関係のいろんな活動をする委員会というものをやっていまして、若手を集めた委員会を立ち上げることになったんです。僕も参加させてもらったんですけど、「今後は豊岡鞄の中に財布も取り入れていこう」という話になりまして。東京から有名な財布の講師を招いて、ワンクールが半年の講習会が開かれたんです。せっかくだからうちも参加しようということになりました。尼崎にいる頃から、革小物などがとても好きでお店でもよく見ていたので、「勉強のために参加させてくれ」と父に頼みました。それがきっかけです。


「財布もひとつのきっかけとして、たくさんの方に来てもらえる豊岡にしていきたいな、と思っています」

──その時に、財布に興味がわいたわけですね。
木下:そうですね。ただ、僕自身は勉強というか、自分の視野を広げるためにできれば良いなと思ったんですけど、父親は「どうせだったらお前は財布をやれ」と言い出しまして、急激に設備も揃えて、もう動かないといけない状態になりました(笑)。

──社長、思い切りがいいですね。
木下:はい。とても行動力があるので、ぐいぐい引っ張られていく形で、僕も頑張らせてもらって、ようやくこのくらいには……(手元にある財布を見ながら)。

──講習会で学んだことをもとに、全部おひとりで作られているのですか?
木下:ほぼひとりです。

──そうなると、なかなか数を作るのは難しいですね。
木下:そうですね。ただ、要所要所でパートさんにも縫ってもらって、社内でしなくてもいいことは内職さんに出しています。なるべく数を上げられるように、試行錯誤してやっています。

──先ほどアルチザンに行って、お店に並んでいる財布を一通り見せていただきました。用途によって、あるいはレディース、メンズなど財布にもいろいろな種類があると思いますが、今、航さんの中では、作りたい財布のイメージはどれくらいあるのですか?
木下:正直、作りたいものだらけですね(笑)。だけど、それを形に起こす時間が足りていないのと、うちはオリジナル製品だけをやっているわけではないのと、自分自身がまだまだ教わりながらやっているのとで、なかなか思うようにはいきません。ただ、最初にやりたかったのが、“風琴マチ”(日本独自の非常に手の込んだ技法で財布などを薄く使い勝手良くできる)と呼ばれる珍しい形のマチで、これは絶対にやりたいと思ったので、すでに商品化させてもらいました。

財布や名刺入れなどを展開する自社ブランドの名前は“La vetta”。イタリア語で“てっぺん”や“最高峰”を意味する。

──社長にお聞きします。御社ではこうして息子さんがものづくりに携わっておられますが、これからものづくりをする若い人材を確保する、育てていくことに関して、御社ではどのような取り組みをされていますか?
社長:会社を縫製業にした時、いろんなことを自分たちでやってきましたが、結局は人を育てるためなんだという結論に達しました。今ここにいるのは、一から全部教えたスタッフばかりです。19〜20歳の頃から、厳しい仕事の中でも残ってくれた人たちなんです。ひとりでものづくりができても、作家さんで終わってしまう。やはり人材を育てていかないと、地場産業のためにはなりません。地場産業であるからには、雇用もしていくし、経済効果も上げていかなくてはいけない。常に上を向いて売り上げを上げていくという姿勢は大事です。そうした中でも、やっぱり人材がなければ、育成しなければ、企業は育っていかないですよね。
 実は、財布を本格的にやりだしたのは2017年の10月からで、まだ1年半も経っていない状態なので、2年くらい経って基礎を固めたら、僕は勝手に増やしていくぞ、と言っているんですけれど。現実はスタッフ不足で、1週間の休みを取って、東京で展示会をするようなことはできない状況です。ですが、若い人たちと一緒になって将来を見据え、その中に飛び込んでいろんなことをやっていかないと。それが財布から始まって、財布ではない他のものをたくさん作ることになるかもしれません。でも、うちの原点は柳行李の地場産業ですので、それを忘れずにやっていけばいい。技術のことを言えば、2年や3年で一人前になるわけがないんですけど、それでもどんどんお尻を叩いている状態ですね、今は。

──航さんに、豊岡を出て帰って来られたUターン経験者ということでお伺いします。豊岡というかばんの町で、かばんに関わる仕事に就いていることについては、どのようにお考えですか? 地場産業を盛り立てる一員であるという自覚などはお持ちですか?
木下:かばんや革小物を作るにあたって、豊岡以上に恵まれた場所は多分ないと思います。そういうところで、こうして仕事ができることはとてもありがたいと思っています。豊岡で財布、というのはまだ全然浸透はしていないし、豊岡で財布なんか作れるの?という段階だと思うんですけど、かばん一本よりも顔がたくさんあったほうが外の方にも注目してもらえるし、かばんを作りたい場合と財布を作りたい場合、両方が豊岡に来てくれたら、もっともっと地域も盛り上がるんじゃないかなと思っています。
正直、今は、カバンストリートを歩いていても、寂しいなっていう印象なんです。豊岡の良さはわかっていますが、やっぱり人の出足は多くないので、そういったところも含めて、財布もひとつのきっかけとして、たくさんの方に来てもらえる豊岡にしていきたいな、と思っています。

──下の世代のものづくりに携わっている方、もしくはこれからやってみたいと思っている方に向けて、ものづくりの先輩として、何かアドバイスをしてあげられるとしたら、どんなことでしょうか?
木下:僕はまだまだ新人なので、僕が教えてもらうことばかりなんですけど……。僕が豊岡に帰って来て3年、実際に財布、というかミシンをやりだして1年半で、ある程度形にはなっています。なので、やる気があれば、どなたでも飛び込んできてもらったら、やっていけることだとは思います。特に豊岡は、関連の企業さんや学びの場──アルチザンやトレーニングセンター──がありますし、どこかに就職して実際に現場で経験を積んでもらうのもいいと思います。もし、ものづくりをやりたいなと思っているのであれば、ここは近道になるんじゃないかなと思います。


高い技術を前提に丁寧な手作業が施されていく。

──お仕事のことは抜きにして、ふるさとである豊岡に戻ってきての生活は、いかがですか? 若い頃には気づかなかった豊岡の魅力を感じることはありますか?
木下:人が温かいところですね。尼崎や大阪にいたら、近所の方との付き合いはまずないんですけど、こっちに帰って来たら、「若い夫婦が引っ越して来たで! 子どもおるで」みたいな感じで(笑)。

──瞬時に情報が拡散する(笑)。
木下:そうです、そうです。みなさんとても良くしてくださいます。町を歩いていて、話しかけてくれる方もたくさんいますし。そういった人の温かさがあるんじゃないかと思います。(豊岡)駅もきれいになりましたし。但馬空港の飛行機もちょっと大きくなりましたし。もう少し交通の便が充実してくれたら、外の方も来やすいんじゃないかな、とは思いますけど。

──子育てもしやすいですか?
木下:しやすいですね。コミュニティもたくさんあるので、そこでママ友の輪が広がったり、自分の子どももたくさんの同世代の子どもたちと遊んだりつながったりできます。向こう(尼崎)だと少し警戒や遠慮をしてしまう部分もあります。いろんな方がいるし、中にはそういう交流が好きではない方もいますしね。でも、ここではそういうことはなくて、私も妻も子どもも楽しくさせてもらっています。

PageTop