企業に訊く③ 2019.02.04
株式会社由利(http://www.yurikk.com/)
代表取締役 由利昇三郎
時代のニーズとそこにある技術を活かして
変化し生き延びている産地であることにプライドを
前日、ベトナム出張から帰国されたばかりだというのに、由利社長はアクティブだ。海外ブランドも含むOEMと、自社で展開する4ブランドのすべてに目を配り、さらには豊岡鞄の認知度アップのためにも尽力する。
故郷の地場産業に誇りを持ち、産地一丸となってそれを盛り上げていこうとする情熱家でありながら、現実から目を背けないリアリストでもあるようで、その絶妙なバランスが各所から信頼を得ている理由かもしれない。
──ベトナムの工場には何人ぐらいの方が、働いてらっしゃるんでしょうか?
由利:720人です。
──大きな工場ですね。
由利:そうですね。規模的には大きいと思います。
──どのような国との取引がありますか?
由利:OEMだと香港、台湾、シンガポール、中国といったアジア諸国に、フランス、イタリア、アメリカ……。
──そうした海外メーカーやブランドとの取引は、いつ頃から始められましたか?
由利:ずっとやろうとしていて、5年前から取り組んで、軌道に乗り始めたのが3年前かな。
──海外との取引を含めたOEMを手がけながら自社ブランドを持ち、さらには地元に根ざした“豊岡鞄”というブランド名を高めていくことにも貢献されています。
由利:かばんの産地は日本に4ヵ所。東京、大阪、名古屋、豊岡とあります。豊岡は柳行李から色々と変化をしてきました。時々で作るものを変えて続いてきたかばんの産地は、世界的にもあまりないんですよ。
柳行李という関係ないもの──かばんに近いといえば近いですけど──から、時代のニーズとそこにある技術を活かして変化し生き延びている産地であることは、プライドを持って自慢できるところですよ。「昔の技術でやっています」、「我々には何より伝統が大事」というのとは少し違うんです。
伝統は伝統ですけど、今流に変化を続けながら産地が生き残るというプライドは、先輩たちも持っていたでしょう。僕の父親は現在85歳。昭和40~45年には、もう輸出をやっていたんです。対アメリカ貿易ですね。だからものすごいバイタリティのある先輩たちから受け継がれているんですよね。
──そうやって変化をしながら豊岡がここまで来られた最大の要因は何だったと思いますか?
由利:やはり産地として、作るメーカー、材料屋さん、問屋さん、これが集積していたこと。結果的に集積したのかもしれませんけれど。豊岡というこの場所が“かばんの町”だという刷り込みが僕らにはあったんですね。
「地場産業は何ですか?」と聞かれたら「かばんです」と、僕らは小学校の頃から勉強してきました。それを自分たちの仕事としてやっていくプライドをずっと持っているんです。だから、単に代を受け継ぐのではなく、自分の代ではどんな風に自分の生き方を示すのかというのがあって、だから、いろんな形に変化し多様化してきたのではないでしょうか。
豊岡市出身アーティスト、KEiKO萬桂氏の作品の前で。
──現在、御社には自社ブランドが4つありますけれど、それぞれの特色を打ち出しながら、やっていらっしゃるということでよろしいんでしょうか?
由利:そうです。商品の特色ももちろんありますけれど、要は“商いのやり方”なんですよ。商いのやり方をいろんな業態に分けて、そこに対してブランドを作っているというのが、正直なところです。だから4つのブランドの売り方は全部違います。
──なるほど。例えばARTPHERE(アートフィアー)は?
由利:ARTPHEREは別会社にしてやっています。百貨店や専門店、普通の平場などの売り場、リアル店舗に売っていく、それがブランドの目的です。Atelier nuu(アトリエ ヌウ)は自社ショップです。自分の工場がお店を出したらという、その試金石です。RAIZON(レゾン)は、冒頭にお話したベトナム工場で作ったものを、ダイレクトにウェブサイトで売るというビジネス・モデルです。まだスタートしたばかりで、そこまでの数字は上がっていませんけれど、力を入れています。
──あとTotem Re Vooo(トーテムリボー)ですね。
由利:これはね、途中で少し変わってしまったんですけど、めいっぱいクオリティにこだわって、材質にこだわって、直販してウェブサイトで売るということでスタートしました。だけど正直、ウェブサイトだけで製品の良さを伝えるというのはものすごく難しくて。
2年間もがき苦しんで、平場とウェブサイトの両面でいかないと、お客さんが認知してくれないということで、今少しARTPHEREに力を貸してもらっています。
──自分は買う側の人間で、やはりバッグをウェブサイトで買うのには、ものすごく勇気が要ります。
由利:そうですね。それはつくづく思います。ある程度認知されているバッグ、例えばヴィトンとかエルメスとかと我々のプライベート・ブランドとではやっぱり認知度が違いますから。そこは僕も甘かったです。
──それでも世の中的には、「ポチる」という言葉があるように、ネットで買い物をする方が増えています。
由利:そういう買い方が、これからは主流になってくるでしょうし、百貨店の数字の落ち方を見ても、やっぱり購買方法が変わっているのは感じます。でもさっきおっしゃったように、やはり良いかばん、ある程度のプライスのものをネットで買うのか?というのは、まだ何かもう少し考えることがあるような気はしますけどね。
──豊岡には“カバンストリート”がありますよね。こういう場所にもっと人をたくさん呼びたいなとか、そのためには何をしなきゃいけないのかな、ということも併せて考えていかなければ……という思いも?
由利:そうですね。やはり豊岡鞄の認知度を上げないことには……。東京丸の内のKITTEにお店を出しましたが、認知度不足をまざまざと思い知らされています。関東での認知度が低い。関西では知っている方もいて、城崎温泉のついでに寄ってもらっていますけど、それだけではビジネスとしては成立しないと思うので。
── “ものづくり”という視点で見ると、インターネットだITだ、というのとは別のところで、例えば田舎で暮らして農業をやりたいとか、職人に憧れたりする若者も確実にいますよね。
そんな中にかばん作りをしたいという若者が全国にいたとして、ネット検索をしたら豊岡にはどうやらかばん作りが学べる場所があるらしいと見つけてくれる。そうした若者の受け入れ先としてのアルチザンやトレセンで若手を育成してくということについて、社長はどのようなお考えをお持ちでしょうか?
由利:手前味噌の話をするわけじゃないですが、今から10年前かな。2008年か09年のまだアルチザンがない時に、関係者が集まったんです。「かばん業界はこれから何をしたら良いと思う?」って言った時に自分で書いたメモをまだ持っていますよ。若手縫製者を育成する機関、ブランディングの事業、豊岡鞄を売る店。自分はそれを全部メモに書いていました。あの頃は「これからはそんなに人も入ってこないし」と思っていましたから。
ただ10年前とは違って、今は入ってきますよ。10年前はそういう“来てもらう機会”もなかったですから、全くのノーチャンスだったんですよ。アルチザンを作った時も、最初はみんなに反対されました。僕らが学校の話で手を貸してくれって言ったら、「お前、誰がお金払ってここに来るんだ?」って。その言葉は今でも耳に残っています。
学校ができるということは、若い人が来るチャンスができるということだと思っていました。もし来なかったら、自分の会社に来ているIターン人材を入れてもいいと思ったんですよ。当時はUターンよりIターンを多く採用していましたから、自分の会社で育てる前に1回、そういうところで教えてもらうのもいいかな、各社の新人教育の場でもいいなと思ったんです。でも結果的には来ました。よくよく聞いたら、他の会社では、Iターンのリクルートさえしていなかった。来たくても来るチャンスがなかった。
そこに受け皿ができたというのは、ものすごく大きい変化でしょうね。このことで変わってきている会社も、実際にありますよ。若手が入るようになり、会社の方向性なり目標なりが見えたりして。
「事業をやってお金が欲しいわけじゃない。安定してみんなが働ける会社ベースが欲しいんです」
──御社には今、どのくらいIターンやUターンの方がいらっしゃいますか?
由利:40人弱はいると思います。もちろん豊岡在住の方も採用はしますけど、僕の採用基準は、どこに住んでいるかは一切関係ない。普通に面接して、選んだ子がたまたま豊岡だったり、そうじゃなかったり。
──かばん作りの職人に必要なことは、どんなことになりますか?
由利:「これで完成品です」、「これがベストなかばんです」と決めるのは誰だと思います?
──お客さんでしょうか。
由利:そう、お客さんですね。だけど職人が「サンプルを作りました。これで完成です」と言ったらそれまでだし、「もう1回ここを直そう」と言って直すのか。どこまで自分がやり続けますか、ということです。もちろん、1回で良いものを作ればいいんですよ。でもなかなか最初はできない。そのできないときに、自分がどうやり直したいのか、「直せ」と言われてからやるのか、言われる前にやるのか。それは本人の性格次第でしょうね。美意識かもしれない。人によって美意識も全然違いますから。
同じワッペンの位置でも、この位置でいいと言う人と、1ミリ上、5ミリ上、1センチ上、いやバランス的に下……この感覚ってね、何が正しいかの答えはないんですけど、美的感覚の中で、「ここ!」というのが僕らにはあるんですよ。それが分かる人と分からない人の差は、ものを見ているか見ていないかの差なんですね。
──感性ではなく?
由利:いや、経験値だと思いますよ。見る経験値。そういう意識でずっとものを見続けてきたのか、漠然と見ていたのかの違いだと思います。マニアになるんですね、見ていれば。目的意識があれば見ますよね。
──豊岡鞄が、この先また2000年続けていくにあたり、変わらないことにこだわる部分と、変えていくことにこだわる部分を社長はどのようにお考えですか?
由利:今の質問はすごく難しくて、僕らもそこが一番悩むところです。変えたらいけないことは、豊岡鞄=縫製。やっぱりきちっと縫製をしていることが大切。デザインは横に置いておくとして、“かばん”という完成物の縫製技術が高く、ある程度の年数使用に耐えうる強度であることが、第一にあるじゃないですか。
この“縫い”に対するものづくりの姿勢は、絶対に変えたらダメなところです。豊岡鞄である限り。変えて良いことというのは、だいぶ難しいですね。中には豊岡鞄を豊岡の中だけで作ることに対して、いつまでそこにこだわるのか、という人もいますからね。
──豊岡以外の場所で作ってもいいということですか?
由利:少し伝わりにくかったですね。良くも悪くも、“ここで作ればみんな豊岡鞄”という感覚の人もいるんです。すると今度は“豊岡じゃない場所でも、豊岡鞄の縫製基準に則っていて良いものができたら、どっちが勝つ?”と言い出す人がいる。それは、逆説的に僕たちも考えないといけませんよね。豊岡で作ったら満足、というのは自分たちだけの発想で、お客さんにしたら「どっちでもいいけど」いうことになる。
実際うちはベトナム工場で、うちのノウハウで、基準を全部クリアしたかばんができますから。「豊岡鞄って何?」ということになった時、縫製基準だけじゃない何かで、この地でしかできないことを考えていかないと……。ものすごく難しいですね。
カバンストリートにあるAtelier nuu店舗。色とりどりのバッグや革小物が並ぶ。
──目標もしくは目指しているゴールを教えてください。
由利:ありますよ。でも、それは言えません(笑)。正直、最近思うことは、この会社なりのペースを守りながら、みんながずっと働いていける安定感のある会社が、やっぱりいいんだろうということですね。平凡な考えですけど。それを可能にするためには、例えば海外の工場も必要だ、と。今のままで大丈夫だとは、僕は絶対思えないんですよ。現状維持だったら最終的に落ちていき、人を減らすことも考えなければいけなくなる。
だからこそ、新しい事業に挑戦することで現状を維持することを僕はやってきました。事業をやってお金が欲しいわけじゃない。安定してみんなが働ける会社ベースが欲しいんです。近い目標では、新しい工場を建てたいです。第一線で会社の社長をやるとしても、もう10年できませんよ。そう思っています。
だからまずは、拡大してあちこちに分かれている工場をもう少し整った環境にする。それが自分の代、僕の目標なのかな、とは思っています。会社としての由利のゴールとは別です。そっちは次の人たちがヴィジョンを持って、この先どうするかを考えていく中でいろんなことをやって、安全ないい会社を維持して欲しいですね。
──社長自身が、Uターンの経験者になるわけですが、IターンやUターンを考えている人に向けて、豊岡で暮らし、豊岡で仕事をしていくメリットをアピールするとしたら、どんなことになりますか?
由利:ものすごくシンプルなことです。自分が仕事以外で楽しく過ごせることが身近にあり、自分の家族を近くで見守り、子供らを楽しく一緒に育てていける環境に適している点です。仕事が終わって5分で家についたり、ゴルフの打ちっぱなしに行ったり、仕事を途中で抜けて、参観日や、保護者会に出ることが出来るのは素晴らしいことですね。
仕事と、家庭のバランスを保つんだったら、こういう田舎の距離感の中で生活するのが絶対いいと思うんです。午前中ゴルフに行って、昼から子供とサッカーして、夜は家族で一緒に温泉に行けますか? 東京で?(笑) 僕は最初PTAには全く興味がありませんでした。ただ子供の同級生の親たちと協力して野外キャンプを計画したり、子供のサッカーの応援を親たちと盛り上がったりすることが、だんだん好きになりました。子供が三人いますが、上の子の時は全く何もしなかったのですが、真ん中の子、下の子にかかわるうちに多くのお父さん、お母さんと知り合いました。
正直仕事バカだった僕がそういう世間を知ることで、少しはまともな人間に近づけたかな?とつくづく思う時があります。結婚して子供を育てることが嫌だから結婚しない人がいると聞きます。でもその過程の本当の楽しみは子育てがほぼ終わった今わかるときが来ます。それもこれもこの環境の良さがそうさせると思います。