豊岡のかばんについて

「豊岡のかばん」とは

「豊岡のかばん」とは「豊岡のかばん」とは

豊岡のかばんの始まり―
奈良正倉院にも上納された

豊岡のかばんの歴史をひもとくと、「古事記」(712年)に新羅王子の天日槍命(アメノヒボコノミコト)が、かばんの元となる柳細工を但馬地方に伝えたとあり、その技術で作られた籠が始まりとされています。「延喜式」(927年)によると、奈良正倉院の調度品として柳の細枝を麻や絹糸で編んだ「柳筥」(やないばこ)が記されますが、これは但馬地方から上納されたものといわれています。

時代を下って「応仁記」(1473年)には、豊岡で開かれた市で柳行李(骨柳)が盛んに売買された記述が見られるなど、この頃には杞柳製品が但馬地方の地場産業として定着しつつありました。
豊岡で杞柳製品づくりが広まった背景として特有の自然環境も。豊岡盆地は内陸でありながら海抜が低く、中心部を蛇行する円山川が荒原(あわら)と呼ばれる湿地帯を数多く形成。そこにコリヤナギが大量に自生したことに加えて、但馬麻苧(あさお)や縁竹といった行李づくりに欠かせない原料がすべて身近に揃っていました。もともと地形的に農地が限られ、積雪する冬季は農閑期となることなども相まって、副業として杞柳製品づくりが盛んになったようです。
江戸時代に入ると、豊岡藩が柳の栽培や製品の製造・販売を奨励し、さらに生産が拡大。幕末までに全国への流通網も整い、柳行李の一大産地として成長を遂げました。

時代による素材の変遷―
新素材でより良いかばんへ

“かばん”としては1881年、3本革バンド締めのトランク型「行李鞄」が第2回内国勧業博覧会に出品されたのが始まり。ただし、従来の杞柳製品に少し手を加えた製品であったことから、まだ“柳行李”と呼ばれていました。その製品に漆塗りや錠前取り付けなどの改良を施し、1917年に誕生したのが「新型鞄」で、これが豊岡がかばんとして売り出した最初のものとされています。

1928年頃には、パルプや木綿が原料の新素材を生かしたファイバー鞄が誕生。軽さと耐久性を兼ね備えて一躍注目され、1936年のベルリンオリンピック日本選手団のかばんに採用されるなど、豊岡かばんの主流は柳行李からファイバー鞄へ。
戦後は高分子化学工業の発達に伴い、生産が容易で比較的低コストの塩化ビニールレザーが1953年頃から登場。傷つきやすいファイバーに代わる素材として広まりました。
1960年代頃から台頭したのが、天然皮革のような風合いを持ちながら低コストで品質も安定している合成皮革や人工皮革です。その後、ジーンズ生地やキャンバス生地を採用するなど、素材は多様化。かつては湿度の高い但馬地方では不向きとされた天然皮革も、1989年頃から積極的に取り入れられるようになりました。

日本最大のかばん生産地―
次代を担う職人養成も

豊岡のかばんの源流ともいえる「豊岡杞柳細工」は1992年、国の伝統的工芸品に指定されました。その伝統を守り継ぎながら、近年はコンピュータを使った最先端の生産技術も導入し、豊岡市は国内最大のかばん生産地として成長しました。

また、地域ブランド確立の一環として、兵庫県鞄工業組合の審査に合格した製品だけが名乗れる「豊岡鞄」が、2006年に地域団体商標として特許庁に認定されました。
2013年には職人の技を継承するため、かばんの縫製技術を学べる鞄縫製者トレーニングセンターが開校。豊岡市縫製者育成組合の運営により、即戦力の人材育成に力を注いでいます。
続く2014年、豊岡市の通称“カバンストリート”の一角、宵田商店街の空き店舗を活用して、豊岡のかばんに関するモノや情報が集まる拠点「トヨオカ・カバン・アルチザン・アベニュー」がオープン。かばんやパーツのショップのほか、かばんのエキスパートを目指す専門校「アルチザン・スクール」も開校し、豊岡が誇る地場産業の次代を担うかばん職人を育成しています。

PageTop